悲しみと向き合うということ

随分と春らしくなりましたが、ここ津山の地では一月の大雪以降二度、三度と雪が積もり、今日は風が強く、雨とみぞれと雪が降る荒れた天気となりました。

さて、今日はある新聞記事に掲載されていたお話をご紹介します。

悲しみを抱えた人を支える「グリーフケア」という活動についてで、上智大学グリーフケア研究所非常勤講師、入江杏さんの活動です。

入江さんは23年前に起きた未解決事件「世田谷一家殺害事件」で妹家族4人を失った遺族です。
偏見と差別から傷つき、事件のことを知られないようにと沈黙のまま6年間を過ごしたそうです。

しかし、様々な葛藤のなか「グリーフケア」というものを学ぶうちに、語りを阻害している偏見の出どころを見つめ、そこから語ることを始めたそうです。
そして、犯罪や事件とは直接関係のない人達にも様々な悲しみがあって、「自由に悲しんでいい」というメッセージを共有する機会を作っています。

ー喪失に伴う悲嘆(グリーフ)は誰の心にもあるものー

入江さんはその歩みのなかで気づいたことがあると言います。

「こうあるべきだ」という社会のメッセージが強く、日々もっと強く明るく、元気に、健やかにとせきたてられ、生活のなかの些細な悲しみに立ち止まる余裕が与えられない。それゆえに、悲しみを語ることに怖さを感じている人も少なくないのではないでしょうか。

万葉集の挽歌(ばんか)や源氏物語などでは男女問わずよく涙をこぼし、「かなしみ」を表現しています。そして「悲しみ」「哀しみ」「愛しみ」「美しみ」「愁しみ」と様々な漢字があてられることからも多くの意味を持っていました。
でも今の日本社会では、「かなしみ」の豊かさは理解されず、ただ怖い、やっかいなものとして忌避されているのではないでしょうか。

入江さんはそんな「かなしみ」の豊かさを取り戻すヒントとして、このように語っています。

「かなしみ」は忌むべきものではない。その中にいる人は、弱い人でもない。かなしみは「乗り越える」というものではありません。喪失の体験やかなしみとの向き合い方に、特別な処方箋はありません。かなしみを恐れることなく、生きていれば誰にでもある豊かなものとして捉え、率直にその経験や苦しみを本心で自由に語ることのできる安全で安心な場や人間関係を増やしていくことが大切なのではないでしょうか。

そして最後にこう締めくくられていました。

足元に立ち戻ると、当然のことですが事件の解決を願わない日はありません。「かなしみ」も心の中に抱き続けています。それでも、亡き人達との出会い直しを通して「悲しみは愛しみ」と気づくことができました。十分にあなたらしく悲しんでいい。「そこから」と語りかけていきたいです。

(朝日新聞より抜粋)

我々はまさに悲しみの渦中にいる方とお話することが日常です。
家族や近しい人を失った悲しみは言いようのない喪失感、そしてたとえ同じ家族でも立場が違えばまたその想いも人それぞれで、自身以外は計り知れないものだと思います。
そのうえで、その方の悲しみに寄り添いながら仏様と皆さまの橋渡しができるよう共にご供養することが我々の使命であり、常にそれを念頭に置いて日々過ごしております。
ですが、前向きになれるように、との思いがつい走ってしまい、急かしているのではないか、励ますつもりの言葉が悲しみを封じているのではないか…この記事からそんなことを考えさせられました。

悲しみと向き合うということ・・・
答えはでませんが、これからも考え続けていこうと思います。
そして少なくとも、人々の苦しみや、「かなしみ」を本心で自由に語ることのできる安全で安心な場が、お寺であるよう努めて参ります。

紅梅

福寿草

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啓翁桜

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