国分寺ご紹介

国分寺についての話

読むとちょっとむずかしいけど、国分寺の歴史は平和と健康長寿を願う、人の願いの歴史なんです。もっと詳しく知りたい人は、お寺の人にどんどん聞いてみよう!

国分寺の略伝記を知る

長寿延命の水との出会い

天平九年(737年)、四十五代聖武天皇の詔により国家安穏、五穀豊穣を願い、国毎に国分寺を造ることとなりました。時の美作の守(かみ)阿部帯麻呂(あべのおびまろ)は吉備の僧、宥玄(ゆうげん)に国分寺を建てる場所を探すよう命じました。その場所を探していた宥玄が川辺に泊まっていたある夜、一人の僧が夢に現れてこう言いました。「私はここから辰巳の方角にある山に住む観音の守りである。わが山の麓に清泉が湧き出るところがあり、この水底には龍がとぐろを巻いている。この水を飲む者は長寿延命である。ここに国分寺を建立しなさい。」翌朝、宥玄が川辺から辰巳の方角を見てみると、山林の中から紫色の煙が、まるで龍が天に昇るかのごとく立ちのぼっていました。急いでその辺りへ行ってみると、観音の祠(ほこら)があり、その山の麓には清泉が湧き、その水底には金の龍がとぐろを巻いているような形が見えたのでした。宥玄はこの地を霊地と崇め、お寺の山号を「龍壽山」(りゅうじゅさん)と名付け、国分寺を建立しました。

乱世の兵火による消失から再興へ

国分寺は平安時代の末頃廃絶したと考えられています。その後、幾度か再興されたこともありましたが、兵火により消失したと伝えられています。慶長8年(1603年)森忠政公が入国、津山城を築き美作一円を治めることになりました。国分寺に伝わる縁起を大いに崇拝し、元和9年(1623年)本堂を建立しました。現在の本堂は文政11年(1828年)に津山藩主、松平家の補助によって再建されたものです。

オレンジの線:古代国分寺
青色の線:現国分寺

※「美作国府と国分寺」津山市教育委員会発行より引用一部改編

メンバー紹介

美作国(みまさかのくに)国分寺には、四人のユニークなお坊さんがいます。
有名、高名をかかげているところは、ちょっと敷居が高いな、そんなことは一切ありません。とっても歴史があって、ありがたくって、親しみやすいのが、美作国(みまさかのくに)国分寺です。

国分寺第103世住職の「孝照」(こうしょう)さん

住職としてお勤めして50年、厳しい反面、かわいいものが大好き。
とてもストイックでアスリートのように職務を果たします。国分寺境内の整備やお堂の修繕に生涯をかける姿に心を打たれて、多くのお弟子さんがつきました。生涯をかけた徳が認められ、若くして「大僧正」になり、2017年には天台宗の最高秘法である「御修法」(みしほ)に出仕しました。
(2017年10月より国分寺名誉住職)

大黒(だいこく)「孝月」(こうげつ)さん

一般の家庭からお寺にお嫁に来て40数年、音楽学校の声楽科で学んでいた娘時代から一転、髪を落としてご詠歌(お経を歌詞にした歌)一筋の僧侶となったのです。娘さんが四人、その内二人はお母さんに憧れてお坊さんになりました。草取りとお堂掃除は天下一品!おしゃべりが大好きなユニークなお坊さんです。

長女「孝楓」(こうふう)さん

謎のカリスマ性?!といわれています。幼少の頃より国分寺の後継者としての自覚を持って成長しました。比叡山弁天堂で厳しい小僧生活をして帰山、現在歴代国分寺住職が兼任してきた、西福寺の住職さんです。活火山のようなエネルギーは、いのしし歳のせいといわれています。
(2017年10月より国分寺第104世住職)

三女「孝惺」(こうせい)さん

自らを仏教マニアといいます。物心ついた頃からお坊さんに憧れ、22才で念願かなって仏門へ。声明(しょうみょう)、座禅、ご詠歌、法話、何でもやってみる実践派。軽い身のこなしと髪型のせいか?少年に間違われること度々です。
(2017年10月より国分寺副住職)