心に大きな虹みつけました

今日はまた夏日となりました。
今の時期は日によって気温差があり、体調管理が難しいですね。

そして今日は近隣檀家の取りまとめをお願いしている、各地域の総代さん宅へ配り物をしに行ってきました。

直接会ってお願いしなければいけないところですが、今この状況ではそれも控えなければならず、基本的にはポストへ投函することに。

しかしこの好天気のなか、家の周りで畑仕事などしている方も何人かいらっしゃったので、距離を保ちつつ、お元気そうなお姿を拝見でき、私達も嬉しい気持ちになりました。

車であちこち走っている途中、空にとても大きな虹が。
思わず車を停めて見惚れるほど、今まで見たことのない大きくてはっきりとした虹でした。

雨なんて降りようもないほどの日差しなのになぜ虹が?なんてことは疑いもせず、なんだか良いことありそう🎶と喜んでいましたが…

夕方の天気予報でこの虹の正体が明らかに!

これは虹ではなく「環水平アーク」といって、晴れた日に太陽の光が雲粒で屈折して現れるもので、天気が下り坂になるサインでもあるそうです。

そういえば、明日の夕方から明後日にかけてこの辺りは雨の予報です。

虹ではなく虹色の光線を見たわけでしたが、空に描かれたキレイな光を見ることができ、今はなかなか会えない皆さんのお顔も見られ、とても良い一日でした。

小さな幸せを見つけると、それが心には大きな幸せとなって残る、ということに気づいた日でもありました。

みなさま、どうぞお元気でお過ごしください。

新茶の季節です

五月一日は八十八夜。

お茶の新芽が出そろう時期です。

新茶にはカテキン、ビタミン、テアニンなどがたっぷり含まれ栄養満点で美味しく、しかもこの時期のお茶を飲むと長生きするとも言われています。

國分寺のご本尊お薬師様の辺りには、その昔、僧侶たちが栽培し、飲んでいたであろうお茶の木が残っています。

今年もまたこのお茶を摘んで飲んでみよう、とお茶づくりに挑戦してみました。

インターネットで調べて、見よう見まねで孝惺さんが奮闘。

何とかそれっぽく仕上がり、まずは仏様にお供えし、その後皆でいただきました。

香り良く、味はとても上品でさっぱりと、そしてジャスミンのような華やかな香りが鼻に抜けます。

暑かった日の夕暮れ、爽やかな風がさっと頬を撫でるような気分になりました。

足るを知る者は富む

みなさまお変わりなくお過ごしでしょうか。

全国的に非常事態宣言が出され、ますます不自由さを感じる日々と存じます。

しかし、今こそ立ち止まって今までの生活、そしてこれからの生活を見直す良い機会だと捉えてみてはどうでしょうか。

暮らしを見直す。
物に溢れた生活を見直す。
取り巻く環境、とりわけ人間関係を見直す。
何かに追われるるように過ごしていた日々について。
自然の恵み、摂理について。

そんなことから心の在り様、目の前にある幸せについても想いを馳せることができるでしょう。

「足るを知る者は富む」という老子の言葉を思い出します。
満足することを知っている者は、たとえ貧しくとも精神的には豊かで幸福である。

大きな話になりますが、地球環境のことについても考えを及ぼすことができます。

もっともっと、という気持ちになってはいないか。

結局は大きなこと(地球環境)も、小さなこと(日々の暮らし)も、同じかもしれません。

不安な毎日のなかでも、幸せは度々私たちの元へ訪れます。

掃除をして庭や部屋が綺麗になった。その後のコーヒーが格別に美味しかった。
綺麗な花が咲いているのを見つけた。趣味に没頭した時間。一日を無事に終え、布団に入った瞬間。

他にも人それぞれ、たくさんの幸せがありますね。

先ほど親戚から、赤ちゃん誕生!という、最高に幸せなニュースが届きました。

2020年4月19日、この苦境のなか、新しい命が力強くこの世に生まれました。

平穏な未来が必ず訪れるよう、頑張ってまいりましょう。

三月一日

今日は、昨年百回忌法要をいたしました、國分寺101世住職、孝正和尚さんのご命日でした。

今年も孫(103世孝照前住職)、ひ孫(104世孝楓現住職)、玄孫(小学二年生〜中学一年生)の三世代が揃い、皆でお参りできたことは、何よりのご供養であったと思います。

今日は日曜日で檀家の方の法事もあり、朝からお寺は忙しくしておりましたので、十分なことはできませんでした。
それでも、小学二年生の玄孫(小春)がお団子を作るのを手伝ってくれ、孝月さんのお膳と並んでお供えできました。
きっと、そんな姿を見て喜んでくださっていることでしょう。

玄関では、お供えいただいた啓翁桜が満開に咲いています。
世情の騒がしさが一日も早く収まり、満開の桜をみんなで楽しめますように。

比叡山参り中止のお知らせ

恒例となっておりました3月13日の比叡山大護摩法要への参拝ですが、今年はお参りを中止することを決定いたしました。

ご承知の通り、新型コロナウイルス感染症が世界中で猛威を奮っています。

そんななか、比叡山へのお参りを決行すべきかどうか、状況を見ながら慎重に検討を重ねてまいりました。

國分寺からの参拝は大護摩法要が執り行われた初回から連続30回を数え、楽しみにしておられた方も多くいらっしゃることと存じます。

できることならば今年も変わらずお参りしたいと準備を進めつつ様子を窺っておりましたが、事態は刻々と変化し、今や楽観視できない状況となっております。

皆さまにはご迷惑をおかけいたしますが、ご理解いただきますようよろしくお願い申し上げます。

一緒にご詠歌を楽しみませんか?

毎月8日はお薬師様の日。

2018年12月9日のブログでもご詠歌とお薬師様の縁日については触れていますが、國分寺では毎月一回、8日にご詠歌の練習をしています。

ご詠歌とは、仏様の教えを分かりやすくメロディーに乗せて唱えるものです。
お経と同じぐらいお陰のあるものですが、平易な言葉で馴染み深く、心にすっと届くような気がします。
お葬式やご法事でお唱えさせていただくと、「このような式は初めてです。」と大変喜ばれます。

「ご詠歌を習うことで、月に一度は必ずお寺へお参りすることができる。それもありがたいことなんです。」と、ある方は仰います。
そして、お寺でだけ繰り広げられる内緒話や女子トークもあるのかも!?(笑)

子供から大人までどなたでも簡単に始められますし、椅子もあるので、足が痛くても座れなくても大丈夫。
ちょっと聴いてみたいわ、と思われる方もぜひ一度いらしてください。

そして、溜めておきたくない感情が芽生えたら、ご詠歌とおしゃべりをして吐き出して、どうぞお寺に全部置いて帰ってくださいね。
あとは仏様がきれいに掃除してくださいますのでご心配なく。

お正月の風景〜花のある暮らし

三が日も過ぎ、また日常に戻りつつあります。
境内は参拝の方も減り、少し静かになりました。

盆地特有の底冷えがする寒さも、どっさり積もった雪も、お正月らしく気分をキリッと引き締めてくれるような気がしておりましたが、暖冬の今年は予想以上に暖かいお正月となりました。

天候とは違い、毎年変わらずお正月の雰囲気を醸し出すのは参拝の方をお迎えする正月花です。
玄関幕前には、今年は趣向を変えた作品を作ってみました。

境内の梅の木を剪定して出た枝を器に見立て、そこに大王松や竹、南天などをあしらいました。
何年もこのお寺を見守ってきてくれた古木です。
お役を終えましたが、最後に玄関でみなさまをお迎えしてくれました。

お寺の玄関内には、一年を通して花を生けております。
決して上手なものではありませんが、少しでも季節を感じ、そこにほんの一瞬でも気を留めて安らぎを感じていただけたら、大変嬉しいことです。
私自身、植物の持つチカラにはとても助けられています。

いつもは気にならなくても、疲れたとき、悲しいときにふと目を留めてくだされば…との思いで、今日もお花を生けております。

福を呼ぶ!孝楓住職


あけましておめでとうございます。
イノシシもお役を終え、ネズミが元気に走り回り始めました。
令和二年も、変わらず真面目に皆さまの幸せを祈り続けたく思っております。
何かご心配事があれば、お寺へおいでください。
いつでもお待ちしております。

    國分寺住職 孝楓


三が日は、寺内一同揃ってお勤めをしました。
一日二回に分けてお薬師様、観音様、歓喜天様、阿弥陀様に日本国の安寧と世界平和、皆さまの平穏、檀家各家のご先祖様のご供養をいたしました。
昨年得度した、小さな新弟子達も大きな声でお勤めしました。

新年あけましておめでとうございます


「津山にある神楽尾(かぐらお)山より」

新しい年が幕を開けました。

今年も世界が、日本が平穏でありますよう。
そして、皆さまが心穏やかに過ごされますよう、お祈りしております。

大晦日には、日付が変わる少し前からお参りの方がみえ始めました。
檀家の方だけではなく、除夜の鐘をつきに若い方の姿も目立ちました。
たとえそれがイベント的なことであっても、日本人としてやはり体の中に染みついているからこそのことだと思います。

108つの煩悩を打ち消すための除夜の鐘ではありますが、心に迷いが出たときはいつでもお寺にお参りして鐘をついてください。
仏様はすべての人をいつでも優しく受け止めてくださいます。

十二年籠山行者 宮本祖豊師から学ぶこと 後編

十二年籠山行者 宮本祖豊師の講演という貴重な機会を得たのも11月の話。
あっという間に師走となりました。津山では零下の朝もしばしば、随分寒くなりました。
大変遅くなりましたが、宮本祖豊師からお聴きしたお話の後編をお伝えいたします。

繰り返しになりますが、十二年籠山行(じゅうにねんろうざんぎょう)とは、天台宗の宗祖伝教大師最澄様があたかも生きていらっしゃるかのように十二年間お仕えする行です。
最澄様は12歳のときに近江の国にある国分寺へ赴き、そこで得度されました。
ご存知の通り、国分寺は741年(天平13年)、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じて建てられた官寺です。
最澄様もその国分寺で得度されたとは、同じ国分寺をお護りしている我々としても光栄なことです。
國分寺檀家の方々も、そんなお寺の檀家であることに誇りと喜びを感じておられることと思います。

さて、十二年籠山行に入る前の苦行である好相行中、宮本師には何度もドクターストップがかかったそうです。
暑さ寒さに加えてひどい湿気と大変厳しい環境のなかで、眠ることも横になることもなく一日三千回の礼拝(らいはい)を続ける。冬の寒さはマイナス15度にもなり、そのうち衣は裂け、膝、踵、指は割れて血が滲む。疲れたら座禅の格好で少し休むだけ。睡魔との戦いで、しばしば意識も失ったそうです。
しかし、比叡山の修行には『行不退(ぎょうふたい)』という言葉があるように、行を途中で止めることは許されません。
では、肉体的にも精神的にもそんな苦しいことを、どうやってやり遂げることができたのでしょうか。
宮本師はこう話されました。

「人間死ぬ気で、決死の覚悟で事に臨めば、必ず成し遂げることができる。」

厳しい修行中、何度もこう考えたそうです。
体はもう限界だ、だけど全身の力を込めたらもう一回だけはできる。そうしたら止めよう。
そして力を振り絞ってもう一回だけやってみるのです。すると一回できる。
そして一回できたら、もう一回頑張ろうと思える。そしてまた一回。
そうしているうちに、三回できました。三回できたら、もう少しできる。その繰り返しで続けることができたのです。

「壁は自分でつくるもの。それを破ることが大事。」

こうも仰っていました。
人はみな、つまづくのが嫌なものです。でも、転んでも半歩、一歩と必ず前へ進むことができます。
自分はここまでだと決めてしまい、壁をつくるのは他ならぬ自分自身なのです。
それをもう一回だけ、もう一歩だけ、と自分自身を奮い立たせることで、その限界は超えることができます。
我々はせっかく生まれてきたのですから、自身の精神レベルを上げ、半歩でも一歩でも成長したいと願います。
では、そのためにはどうしたらよいのでしょうか。

そのためには、「徳の高い人に会いなさい。」

そしてそれには、「霊地、聖地を訪れなさい。」

霊地、聖地は沢山の修行者が生まれたところであり、そこには独特の波動が流れています。
また、お釈迦様は両親に感謝することによって徳を積んできたと仰っています。
みなさんもまずはご両親に感謝することです。
そして、ある千日回峰行者は最澄様のお言葉「一隅を照らす」を次のように解釈しています。

自分の置かれたポストにベストを尽くす。

これらのお話を伺うにつれ、だんだんと私の捉え方も深まっていきました。
初めは目の前の立派なお方の強靭な精神力と肉体、卓越した意志で十二年籠山行(じゅうにねんろうざんぎょう)という想像を絶するような大変な行を、二十年もの長きに亘って成し遂げられたお話が聴ける貴重な機会、ということだけを思っていました。しかし途中からは、行中の壮絶な体験は到底真似できないことですが、その根底にある考え方や努力、頑張りは特別な人にだけ当てはまることではないという風に思い、自分のことと照らし合わせながら宮本師のお話を聴くようになりました。

我々の日々の生活にも、それらは大いに当てはめることができます。

・困難なことや嫌なことがあっても、もう一度だけ頑張ってみよう。
・一人でも多くの尊敬できる人に会い、その人の行いや心がけを真似てみる。
・自分が心地よいと感じる場所を訪れてみる。
・今いる環境のなかで自分ができることを精一杯やる。

遠くの有名な場所だけではなく、近くのお寺や神社も聖地です。
静寂のなかに身を置いて、しばし心を落ち着け心の声に耳を傾けてみる。
何に喜びを感じ、何に苛立ちを覚えているのか。その原因は何なのか。
自分の心や自分自身を外から見てみることで、今ある幸せに気づくことができたり、本当に望んでいること、すべきことが見えてきます。
すると目に見えないものへの感謝が芽生えたり、意味のない不安や恐れ、怒りから心を開放することができるように思います。

どうか苦しいときこそ思い出してください。

これ以上もう無理だと思ったとき、これが最後ともうひと踏ん張りだけ頑張ってみる。
転んでも、起き上がって半歩足を前へ出してみれば、必ずその半歩分だけは前へ進むことができるのです。